メイン

2006年08月15日

0815お盆

今日はお盆です。私も朝早くから墓参りに行ってきました。

お盆というのは、仏教系の説では「盂蘭盆(うらぼん/ウラバーナ)」の略で釈迦の弟子の目蓮が、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母親を霊視して、何とか母の供養をしたいと釈迦に願い、そこで供養の仕方を指導した、という話から来ているとわれるのですが、民俗学系の説では、供物を乗せる盆から来ているとされ、季節の変わり目(*1)の祖霊供養の行事であろうとされています。恐らくは両者が結びついて、今のような形に落ち着いてきたのでしょう。

(*1)「年」のはじめの行事とも言われます。昔は日本は冬至から夏至に掛けての年と、夏至から冬至に掛けての年という、現在の半分の長さの「年」を使用していたともいわれ、春年の年初が現在のお正月、秋年の年初が現在のお盆というわけで、これが現在の年間の2大行事になっているわけです。神武天皇が「4月1日」に「日本は蜻蛉(あきつ:トンボ)が連なったような美しい国だ」と言って「あきつしま」という言葉が出来た、と日本書紀に書かれていますが、これもこういう古い暦でいうと今の8月中旬くらいでトンボが実際たくさん飛んでいたので、こういうことをおっしゃったという可能性もあるわけです。

お盆というのは本来7月15日なわけですが、現在これを「中暦」で行う風習が全国的に定着していて、新暦や旧暦でお盆をするという所の方が少数です。中暦のお盆には休みを取るのを企業が是認する習慣も広く普及していて、都会に出て働いている人がお盆には田舎に帰って先祖にお参りするというスタイルが定着しています。かくして、この時期には全国の交通機関も道路も大混雑するわけです。

私はあまりこの時期に移動するのは好きではないですが、25年ほど前に青森に祖父の初盆だかに行っての帰り、山形経由で東京に出た時に特急が物凄い乗車率で、デッキにも人があふれ、トイレの前で座ってお弁当を食べたのが今でも強く記憶に残っています。

今年は帰省の混雑のピークは12-13日でしたが、都会への戻りの混雑のピークは14日夜-16日ということのようです。

8月15日はこれだけの大きな行事がおこなわれるのに国民の祝日になっていないのが不思議です。戦後新しい祝日を定める時に候補にはなっていたのですが、GHQが「特定の宗教の行事はNG」と言ったので、採用できなかったとも言われています。「お盆」でだめなら「終戦記念日」でもいいと思うのですけどね。

2005年12月24日

1224クリスマスイブ

12月24日はクリスマスイブです。

本来12月25日がクリスマスで、24日はその前夜祭であるわけですが、日本では24日にみんなで大騒ぎして25日以降はもうクリスマス気分は消えてお正月の準備にまっしぐら、という雰囲気があります。

元々外国のお祭りを借用しているだけなので、お祭り自体の意義はみなあまり気にしていないのでしょう。万聖節なども11月1日の万聖節自体はそもそもその存在自体をみな知らずに前夜祭のハロウィンだけ騒いだりしていますので、日本人はそういうのが多分好きなのでしょう。

基本的にはクリスマスはキリストの誕生日ということになってはいるのですが、本当にキリストがこの日に生まれたのかというのには疑問が多く、実際にはこのお祭りはヨーロッパで昔から行われていた冬至祭を、キリスト教徒にとって光に等しいような存在であるキリストの誕生を祝うのにふさわしい日として取り込まれたもののようです。そのためキリスト教の祭典の中でも異教色の強い祭りのひとつであり、中世には町によっては教会がクリスマス禁止令やサンタクロースの火刑(実際にはサンタクロースの人形を町の広場で焼いた)などの指令を出したようなケースもありました。しかし今日ではおおむね多くのキリスト教徒に受け入れられているようです。

なおキリスト教徒にとっての最大のお祭りはイースターです。

日本ではクリスマスツリーは、12月の上旬あるいは中旬くらいから飾り始め、24日のイブが終わったら撤去ですが、ヨーロッパなどの風習では24日のイブにツリーを準備して飾り付け、2月2日のキャンドルマスで片付けるというのが基本のようです。ただどこも慌ただしい時代になっているので最近ではキャンドルマスまで飾っておく家庭は少なく、「十二夜」が終わる1月6日の公現節で片付けてしまうところが多いそうです。

2005年12月17日

1217浅草羽子板市

浅草の羽子板市は毎年12月17日から19日まで行われます。これも年末の風物詩になっていますね(^_^)

大きい羽子板が売れると「お手を拝借。シャンシャンシャン」といった手締めの声がかかるとのこと。羽子板の絵や雛祭りの雛人形などはよく世相を反映したものも並ぶようですが今年はどうでしょうか。

羽子板は元は「羽子木板」(はねこぎいた)と呼ばれていたようです。羽子というのはつまり羽根の付いた玉という意味ですね。それを打つ木の板というわけです(ひょっとしたら、羽の付いた子木を打つ板かも)。それが漢字の方は「木」が省略され、読み方も音便的に「ね」と「き」が脱落して「はごいた」になってしまったようです。先頭の「羽」を脱落させた子木板(こぎいた,胡鬼板)という名前もあります。

羽根突きの遊び自体の起源は室町時代頃のようで、後崇光院(伏見宮貞成親王,後花園天皇の父)が永享4年(1432)に書かれた看聞御記にも記載されています。当時から既にこれを年末の贈り物にする風習もあったようですが、現在のように金銀や正絹の押絵などで飾られた華麗なものが出てきたのは江戸時代後期になるようです。

この羽子板市に1998年頃、初めて行きあいました。

たくさんの羽子板を売る店が並んでおり、大勢の客が店の前に並んでいるのですが。。。。。。奥の方の一帯では声を掛ける人がほとんどいません(^^;

みな、その美しさに見とれているという感じ。たまに(勇気を出して)声を掛けるお客さんがいましたが、ぶっきらぼうな店のおばさんの声を聞くと、ため息を付いてまた沈黙。(ちなみにそのお客さんが尋ねたのは一番小さな羽子板の値段であった)

誰もが値段の「相場」を知りたいものの声を掛ける勇気がなかったようで、そのやりとりを聞くと、諦め顔をして立ち去る人たちもありました。

しかしまぁ、私もおかげで充分目の保養はさせてもらいました。

2005年12月15日

1215伊勢神宮月次祭

ほんとにいよいよ年末という感じです。

伊勢神宮では、6月と12月の15~25日に、月次祭(つきなみさい)を実施します。

これは伊勢神宮では10月の神嘗祭(かんなめさい)とあわせて伊勢神宮の三大祭(三節祭という)となっている重要な儀式で、五穀豊穣、国民の平安などを祈願するものです。

一般の人は立入禁止の内院の中で、由貴大御饌(ゆきのおおみけ)という儀式が行われ、正殿前には白木の机(案という)が置かれて、神饌を供え祝詞が奏上されます。また、皇室からの勅使による奉幣の儀が行われます。

この儀式は外宮では15日から、内宮では16日から始まり、関連行事が25日まで続きます。

2005年12月11日

1211花祭り(この頃)

この時期から2月頃に掛けて、奥三河の各地で「花祭り」と呼ばれる神事が行われます。

例えば東栄町中在家では11日のようです。その他日程については例えば東栄町の分は↓をご覧下さい。
http://www.town.toei.aichi.jp/saizi/hanamatsuri.html

「花祭り」とは何か、またどのような進行で行われるかについては、早川孝太郎さんの名著「花祭」(岡書院,1930)をご覧下さい。さすがに古い本だけあって一時期は入手困難になっていたようですが、現在は上巻のみですが
岩崎美術社から再版されていますので、それを見るだけでもかなりのことが分かります。

(実は私もこの再版分しか持っていない。下巻は未見)

この行事をやるところは天竜川の流域に集中しています。早川さんの本の書き出しは、この「天竜川」という川の名前の謎から始まります。

曰く。大きな川というのはしばしば流域によって名前が変わっているのにこの天竜川という川はどこに行っても同じ「天竜川」という名前で呼ばれている。しかも「天竜」という地名は存在しない。

祭の内容は、神道あるいは神楽や民俗学に興味のある人以外には、そんなに関心を引くようなものではないと思います。ごく普通の田舎神楽という感じなのですが、なぜか早川氏はこの祭に魅せられてしまったようです。

最近ではこの花祭りに陰陽道の研究者の一部が興味を持っているようです。概してこの手の文化には陰陽道・修験道が複雑に絡んでいることが多いのは確かです。

2005年12月08日

1208成道会

12月8日は、仏教の三大行事(三仏会)のひとつ成道会です。釈迦が菩提樹の下で瞑想をして悟りを開いた日を記念するものです。(あと2つは4月8日の降誕会と2月15日の涅槃会)全国のお寺では、僧が集まってお経の唱和をしたり、禅宗系では座禅会をしたり、また一般の人向けに乳粥などの接待も行われます。京都の千本釈迦堂や了徳寺の恒例の「大根焚き」もこれに合わせた行事で、初冬の風物詩となっています。

釈迦は王城を出て何人かの仙人(徳の高い僧)にいったん師事するもその教えに納得できず、山林の修行者に混じって6年間苦行を続けますが、このような苦行では自分の目指しているものは得られないと判断して山を下り、そこで、村娘スジャータ(ナンダバラ)が与えた乳粥をもらって元気を取り戻した上で、菩提樹(ヒッパラ樹)の下で瞑想を続け、12月8日の朝、明けの明星が輝き始めた頃に悟りに到達したといわれています。

禅寺ではこれにあわせて1週間前から不眠不休の座禅をするところもあります。乳粥が参拝客にふるまわれる所はスジャータのエピソードにちなんだものです。千本釈迦堂の大根焚き(12月7~8日)は、鎌倉時代に慈禅上人が、成道会の時、大根の切口に梵字を書いて厄除けを祈願したのが始まりと言われています。了徳寺の大根焚き(12月9~10日)は、親鸞聖人が法然上人の遺跡を訪ねて来たときに、里人が大根を煮て捧げたのが始まりと言われています。京都には大根焚きをするお寺が他にも幾つかあります。

2005年11月23日

1123勤労感謝の日・新嘗祭

勤労感謝の日は戦後国民の祝日が定められた際(1948)に「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」という趣旨で定められました。アメリカのLabor Day に相当するものと思われますが(*1)、アメリカのLaborDayは9月の第1月曜です。しかしこの11月23日は明らかに新嘗祭を意識して定められたものということで、論者の間にも意見の相違はないものと思われます。

新嘗祭(にいなめさい)は古くからの国家の重要な行事であり「瑞穂の国」の祭祀を司る最高責任者である大王(おおきみ,天皇)が国民を代表して、農作物の恵みに感謝する式典でした。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことをいいます。

律令制度のもとでは、季秋(9月)11日に神嘗祭(かんなめのまつり),仲冬(11月)の最初の卯の日に相嘗祭(あいなめのまつり),2番目の卯の日に新嘗祭(にいなめのまつり)を行うことになっていました。この新嘗祭のうち、天皇が即位してから最初に行うものを特に大嘗祭(おおなめのまつり)といい、これが実質的にその天皇の即位を天下に知らしめる大規模な祭典となっていました。

現在は新暦に移行したため、伊勢神宮では10月の15~25日に神嘗祭、11月23日に新嘗祭を実施しています。宮中では10月17日が神嘗祭,11月23日が新嘗祭です。昔はその年の新米は新嘗祭が終わるまでは誰も食べないのが習慣でした。陰暦の11月の第二卯日というと太陽暦で見ればこれはちょうど冬至頃に相当します。

日本には昔からいろいろなダブルスタンダードがあるのですが、基本的に公式の暦は中国風に立春から始めるということになってはいても、実はここに農業民族最大の祭典である新嘗祭をほぼ冬至に行うということで本当は1年を冬至から始めていたわけです。新嘗祭はつまり本当は新年の祭りであり、だからこそ、大規模な式典が行われ、天皇にとっても重要な儀式であったわけです。

新嘗祭がいつ頃から行われていたのかは必ずしもはっきりしないのですが、日本書紀で皇極天皇元年(642)の11月16日に新嘗祭の記述があるのが文献に出てくる最初です。この日は西暦では642年12月12日(グレゴリウス暦642年12月15日)で干支は丁卯にあたり、既にこの時代には新嘗祭は11月の第二卯日というのが、確立していたのでしょう。

昔は新嘗祭の前日(つまり大晦日)には鎮魂祭(たましずめのまつり)が行われ、翌日に群臣が小忌衣を着て集まって豊明節会(とよあかりのせちえ)が行われ、各氏族の自慢の姫たちによる五節舞(ごせちのまい)が舞われました。むろんその中で大王が目を留めた姫はそのまま入内する意味も兼ねていたようです。

なお「五節舞」という名前は、その舞の見事さに天の貴人たちが見物に降りてきて、その様がまた慶ばしいこので、その天女たちを大王が五度見上げた、ということから名前が付いています。通常の新嘗祭では舞姫は4人、大嘗祭の時だけは5人で、いづれも卯日をはさんで2日前の丑日から翌日の辰日まで、4日間(つまり大晦日~正月三日)行われました。

この新嘗祭関連の民俗行事としては、やはり年迎え的な行事が残っています。能登半島の「あえのこと(現在は12月5日)」などは、まさに「あえ(饗)」が嘗の意味でしょう。東日本各地には「油しめ」といって、餅をつきテンプラを食べて髪に油を付けるという行事があります。

(2001-11-23)

(*1)「勤労感謝の日」ならLabor Dayに相当しますが「新嘗祭」なら、むしろThanks Giving Dayに相当するのかも知れません。これは11月の第四木曜です。日程的にも日本の現在の新暦による新嘗祭と重なります。ただ本来はThanks Giving Dayは新嘗祭より神嘗祭の方なのかも知れません。(2001-12-03)

2005年11月15日

1115七五三

11月15日は七五三です。

この日、三歳の男女(女の子だけの地方も多い)、五歳の男の子、七歳の女の子、はお宮参りなどをして無事と健康な成長を祈ります。また神社の境内で千歳飴を買い、記念写真を撮ったりします。

三歳は元は髪置きといいました。昔は赤ちゃんの頃は髪は剃っていて、この日を境に髪を伸ばすようになっていました。

五歳は元は袴着といって、男の子はこれから袴を着るようになりました。

七歳は帯解きといって、女の子はこれから、それまでの紐で締める服から帯で締める服に変えていました。

旧暦で十一月十五日は二十七宿の鬼宿にあたり、この日は祝い事に最もよい日とされたことから、この日が選ばれたものと言われます。旧暦の十一月十五日は新暦では12月下旬(今年は12月16日)くらいに当たります。現在は七五三は基本的に新暦で祝われますが、寒い地方では一月早めて十月十五日に行うところもあります。

元々七五三は関東から広まっていったものです。一説によると徳川五代将軍綱吉が子供の祝いをこの日に行ったことから始まったとも言われますが、実際にはもっと古いものであるともいわれます。

(ひな祭りなどもそうだが現在の多くの伝統的風習がしばしば綱吉時代にルーツを求められている。それだけ綱吉時代、つまり元禄文化の存在が大きかったのであろう)

また、このような子供の成長の祝い事には地方によってけっこうなバリエーションがあったようです。長野県では男女とも三歳で帯解きをするケースがあったようですし、関西では七五三は行わずに、三月十三日の十三参りが重要視されたケースもあるようです。

2005年11月12日

1112神在祭

現在旧暦では10月。神無月(かんなづき)に入っていますが、全国の神様は今日12日から出雲大社で全国神様会議を開いています。そもそも全国の神様が出雲に集まってしまうので、日本中神様がいなくなってしまうから「神無月」というわけです。そしてその間出雲では「神在祭」がおこなわれます。

出雲大社では昔の「日」の区切りに従い旧暦10月10日(今年は11月11日)の夕方に神迎祭を開き、10月17日(今年は11月18日)までの神在祭をおこないます。出雲大社が縁結びの神といわれるひとつのゆえんはこの会議で男女の縁についても話し合われるからであるとも言われます。

出雲大社(いづもたいしゃ)はその土地の名前から杵築大社(きづきのおおやしろ)ともいい、元々日本の主宰者であった大国主命(おおくにぬしのみこと-だいこくさま)の本拠地です。後に、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である迩迩芸命(ににぎのみこと-神武天皇の先祖)に国を譲った時、物理世界の支配権を渡す代わりに精神世界の支配権を確約されたともいわれています。ですから恋愛問題などは大国主命の管轄範囲です。

大国主命が国譲りをした時、その代償としてこの杵築の地には高さ96mという巨大な社が建てられたと伝えられています。たださすがに高すぎて何度も倒壊しては建て直されている内に、たまたま予算がない時に建築規模が縮小され、48mの時代を経て、現在は24mになってしまっていますが、それでも充分大きなお社です。48m時代の設計図が最近発見されて、大手建築会社がCGで復元したものが発表されていました。

なお神在祭は出雲大社以外でも、出雲近辺の神社で行われます。現在新暦でおこなう所と旧暦でおこなう所がバラバラになっていて、たいへん日程がわかりにくいのですが、2年ほど前にまとめたものが↓にあります。
http://www.ffortune.net/calen/izumo/kanna.htm
もし誤りなど発見された場合は、ぜひお知らせ下さい。訂正します。

2005年11月02日

1102唐津おくんち

毎年11月の2日~4日には佐賀県唐津市で「おくんち」が行われます。

「おくんち」とは特に西日本で行われる秋祭りで、元々は「御九日」つまり9月9日の重陽の節句のことです。昔は9月9日前後に行われていたものと思われますが、明治に新暦に移行して以降、各地域ごとに実施の日程はばらばらになってしまったようです。(唐津のおくんちは江戸時代には9月29日に行われていました。)

唐津のおくんちは200年以上も前の古い曳山が使用されていることで有名です。この曳山は超大型・漆塗り・一閑張りという全国でも他に例を見ないユニークなもの。毎年この、鯛や獅子などの曳山を見るために全国から観光客が訪れます。

一番曳山・刀町 赤獅子 (1819)
二番曳山・中町 青獅子 (1824)
三番曳山・材木町 亀と浦島 (1841)
四番曳山・呉服町 源義経の兜(1844)
五番曳山・魚屋町 鯛 (1845)
六番曳山・大石町 鳳凰丸 (1846)
七番曳山・新町 飛龍 (1846)
八番曳山・本町 金獅子 (1847)
九番曳山・木綿町 武田信玄の兜(1864)
十番曳山・平野町 上杉謙信の兜(1869)
十一番曳山・米屋町 酒呑童子と源頼光の兜(1869)
十二番曳山・京町 珠取獅子 (1869)
十三番曳山・水主町 鯱 (1876)
十四番曳山・江川町 七宝丸 (1876)

唐津は「からの国」つまり中国へ向けて船を出す港(津)という意味で、古くから大陸との交通の拠点として栄えました。背後にそびえる台形状の「鏡山」には松浦佐夜姫(まつらさよひめ)の伝説があります。

昔、大伴狭手彦が朝鮮に出兵する準備をするため唐津に滞在していた時、この地の長者の娘・佐夜姫と愛し合うようになります。しかし狭手彦はやがて出発。姫はこの鏡山の頂上に登って船が海の向こうに消えていくまで見送っていたと伝えられています。

(異説では我慢できずに船団を追って走っていき、最後は呼子の加部島まで行って、そこでいつまでも海を見て立ちつくしている内に石に変わってしまったとも。加部島の有名な式内社・田島神社にはその佐夜姫が変じたという石が今も大事にお祭りされています)

鏡山の形はこの付近が隆起地形であることを示唆しますが、この近くには、もっとはっきり隆起地形を示す、まっ平らな島「神集島(かしわじま)」もあります。この島はその形から昔から、神様たちの集会場と言われていました。

唐津おくんちのサイト↓
http://www.city.karatsu.lg.jp/kouhou/kankou/k1/k11.html

2005年10月31日

1031ハロウィン

11月1日は万聖節(Hallowmas)で、その前夜祭がハロウィン(Halloween)です。日本人はクリスマスよりクリスマスイブに騒ぐ傾向がありますが、ハロウィンになると、そもそもみんなハロウマスの方を知りません。

子供たちが、かぼちゃの中身をくりぬき、目鼻口をくりぬいたちょうちん(Jack-o'-lantern)を作り、夜になると怪物の格好をして、近所の家を訪ね歩き、「Trick or treat?」(いたづらされたい? いやなら接待して)という決まり文句を言ってお菓子をもらうなどという習慣がありました。現代でもこの習慣は残ってはいますが、アメリカなどでは色々トラブルが起きており、危険すぎるということで将来的には変質していく可能性もあります。

・この祭りにかこつけて強盗を働く者がいるので、よく分からない集団が来た場合はドアを開けない方が良い。
・訪問する側もドアの開いてない家、玄関に灯りが灯っていない家は避ける。
・お菓子に異物を混ぜて渡すおかしな人がいるので、手作りのおかしはもらっても食べない。包装が解かれた形跡のないものだけを食べる。
・やってきた子供をそのまま拉致するものがいるので、絶対に玄関より内側には入らない。
・基本的な問題として子供たちだけでは歩かせない。大人が同伴する。

また、近年は仮装用の衣装にナイロン等が使われることが多いのですが、ナイロンは燃えやすいため、毎年ろうそくの火が燃え移って、大やけどしたり死亡する事故が起きています。できれば化繊は避けるとともに、防燃加工された素材を使いたいものです。また被り物を付けると極端に視界が狭くなります。視界があまり遮られていない衣装の人と一緒に行動したいものです。また視野を明るくすることと、人が歩いていることを車に知らせるため、かならず懐中電灯を持って歩くべきといいます。

ハロウィンの起源は一般に古代ケルトにさかのぼると言われていますが、実際にはもっと古いかも知れません。クリスマスなどと同様、ヨーロッパの古い多神教時代のお祭り(たぶん収穫祭)のなごりなのでしょう。

2005年10月22日

1022時代祭

毎年10月22日には、京都三大祭りの一つ、時代祭が開かれます。(あとの二つは葵祭と祇園祭)

このお祭りは桓武天皇による平安遷都1100周年を記念して1895年に始まったもので、三大祭りの中では最も新しいものです。

祭は平安遷都以来の歴史を遡るように、維新期の鼓笛兵に始まって江戸時代の武士、戦国時代の武士、流鏑馬、平安時代の女性たちなど18のグループ2000人が次々と行列を繰り広げます。一行は京都御所の堺町御門を出発、烏丸通り-御池通り-三条通り-神宮通り-と経て、平安神宮に向かいます。この平安神宮も遷都1100年に合わせて創建されたものです。

桓武天皇は最初天応元年(781)長岡京へ遷都しようとしますが、新都建設の責任者の藤原種継が射殺されるという事件が起こり、この事件に連座して皇太子・早良親王が捕らえられる不祥事が発生します。さらに諸国で天然痘が流行、建設中の新都も洪水に見舞われる始末で、さすがの天皇もこの新都を放棄せざるを得なくなります。

しかし、ここでめげない天皇は更に新たな都を建設することを決定、現在の京都の地を選んで延暦12年(793)視察使を派遣、すぐに建築を始めさせ、その建築の最中の延暦13年10月22日、早々に平城京から引っ越してしまいました。長岡京にさんざんケチが付き、遷都に反対する勢力も勢いづいていたことから、天皇の遷都に対する強い意志を示す必要があったのでしょう。

平安京は東に鴨川(青龍)、西に東海道(白虎)、北に船岡山(玄武)、南に巨椋池(朱雀)があり、風水的に理想の地です。故にその後1000年以上首都として栄えました。また呪術的に見た場合、北東に比叡山(山王神社)、北西に愛宕山(愛宕神社)、南東に稲荷山(伏見稲荷)、南西に松尾山(松尾神社)があって、四方だけでなく四維もしっかり守られています。

惜しむらくは、現在では巨椋池が破壊されてしまったため、せっかく集められた京都の運気は、淀川を通って大阪に流れていってしまうことでしょう。

2005年10月15日

1015神嘗祭

毎年10月15日から25日にかけて、伊勢の神宮(通称「伊勢神宮」)では神嘗祭(かんなめさい)が行われます。これは、その年に取れた新米を最初に神様に捧げて感謝する行事です。

外宮(げくう)では10月15日宵・16日暁、内宮(ないくう)では10月16日宵・17日暁に、新穀を由貴大御饌としてお供えされますが、関連行事は25日まで続きます。またこれに合わせて、宮中では神宮御遙拝の儀などが執り行われます。

神宮の行事の中でも最も重要な行事で「神宮の正月」とも言われ、神宮ではこれにあわせて色々な道具が新調されたりします。戦前は祝日になっていました。なお、このあと来月11月23日には今度は宮中で天皇が新穀を神に捧げる新嘗祭(にいなめさい)が行われます。こちらは現在、勤労感謝の日になっています。

このふたつの行事は農業を中核産業とする日本にとって重要な儀式でした。

2005年10月09日

1009飛騨高山秋祭り(-10)

10月9~10日には飛騨高山で秋の高山祭がおこなわれます。

からくり人形のある屋台で知られる高山祭は春祭と秋祭があり、春祭は4月14-15日、秋祭は10月9-10日におこなわれています。春祭は日枝神社のお祭りで12台の屋台が出、秋祭は桜山八幡宮のお祭りで11台の屋台が出ます。

春の屋台:神楽台 三番叟 麒麟台 石橋台 五台山 鳳凰台 恵比須台
     龍神台 崑崗台 琴高台 大国台 青龍台 
秋の屋台:神楽台 布袋台 金鳳台 大八台 鳩峯車 神馬台 仙人台
     行神台 宝珠台 豊明台 鳳凰台 

この内、春の三番叟,石橋台,龍神台、秋の布袋台にからくりが仕掛けられています。そのほかの屋台も豪華な装飾を施された見事なものです。9日夜には屋台に提灯が灯った宵祭になり、これもまた美しい光のページェントとなります。この祭の期間、高山では20~30万人の観光客で町があふれます。

参考サイト

高山祭公式サイト http://www.hida.co.jp/02/matsuri/matsuri.htm

2005年10月07日

1007長崎おくんち

毎年10月の7日から9日まで、長崎市で「おくんち」がおこなわれます。(諏訪神社自体の例祭は8日)ただし雨が降ると順延される場合もあります。例えば1998年は大雨のため8~10日に順延されました。

「おくんち」とは「御九日」がなまったもので、本来は「9月9日」重陽の節句の意味です。この行事は西日本各地にあり、元々はほんとうに9月9日におこなわれていたものと思われますが、明治の新暦移行以後、新暦の9月9日ではあまりにも早すぎるため、各地それぞれそのくらいの時期に移行したようです。九州各地でおこなわれますが、長崎や唐津(11月2日)のものは特に有名です。

長崎の「おくんち」は諏訪神社のお祭りとしておこなわれ、中華街のある町らしく蛇踊りや「こっこでしょ」などがおこなわれます(毎年当番の町が出すので毎年出る物は違う)。始まったのは寛永11年(1634)。円山の芸者衆が舞を奉納したのが最初と言われます。その後、長崎市内の旧77町が7年に1度回ってくる当番の年に各町内で出し物を仕立てて、諏訪神社に奉納する形式に発展しました。

長崎諏訪神社は江戸時代初期にキリスト教の普及で荒廃していた市内の諏訪神社・森崎神社・住吉神社の3つを佐賀出身の修験者・青木賢清が合祀して1625年に円山に設立したものです。その後幕府の寄進を受けて現在地に移転、社地も広がり、その後多くの長崎の人々の信心を集めるようになり、やがて長崎総鎮守の神社として崇敬されるようになりました。

江戸末期に一度火災で社殿が焼失しましたが明治のはじめに島原藩主により再建。原爆の爆心からは山影にあたるため戦争の被害も少なく、樹齢数百年の大楠を背に美しい社殿が建っています。ただし拝殿は1984年に造営されたものです。